樹木は素敵なアーティスト。落ち葉と戯れるちょっと心地よい一日。 ウィーン旅行記、初めての野菜づくりの体験記も。コメントお待ちしてます!  
ベートーベン「田園」交響曲の風景
2006年10月31日 (火) | 編集 |
引っ越し魔であったベートーベンが気に入り、しばし留まった場所。そして難聴に苦しんだベートーベンが自殺を決意し、遺書を書いた家が残っている場所が「ハイリゲンシュタット」というところ。
またここで難聴と戦い克服した彼は、周囲の村や自然を散策しながら交響曲「田園」の構想を練ったという。
実際「ベートーベンの散歩道」と名付けられた小川沿いの小道も残っている。

ウィーンから路面電車に揺られ20分あまり。
この街は「ウィーンの森」に繋がっている。

(c)masayoshi ishii

美しい森の麓に、富裕層たちが邸宅を構える。日本で例えると鎌倉のようなところか。
その家々の広大な庭に挟まれて「ベートーベンの散歩道」は森に向かって伸びている。

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この辺りの小道の左右の豊かな林は、皆家々の庭の一部。

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小川沿いに緩い坂道を歩いてゆくと、次第に森の雰囲気に。
深呼吸をすると、体に生気が湧いてくるようだ。
ここはまるで田園交響曲第2楽章・・・

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小川沿いの森の小道を抜けると、
山々の斜面には見事に赤や黄色に紅葉したブドウ畑が広がっていた。

(c)masayoshi ishii

畑に足を踏み入れ散策してみると、どこからか不思議と香ばしいワインの香り。
足下を見るとブドウを搾った赤黒い糟が至る所に播いてある。
この香りだ。

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この森とブドウ畑の広がる清々しい農村風景。
それは僕の思い描いてきた想像でしかなかった田園交響曲の風景に、とても近いものに感じた。
今は機械化も進んだせいでブドウ畑に人っ気はない。
でもそこに第3楽章のメロディを重ねてみると、当時農夫たちが賑やかに仕事に精を出している風景がありありと浮かんでくるようだ。

音楽が、風景を保存している・・・


ブドウ畑と森から、ハイリゲンシュタットの街のベートーベンが住居を構えていた辺りに降りる。
地元ワインと郷土料理をバイオリンなどの生演奏を聴きながら楽しめる「ホイリゲ」と呼ばれる居酒屋の集まる一角だ。

ベートーベンが遺書を書いたという家に行く。

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そこは訪れる人も少なく、時間の止まった場所。
一本の菩提樹が、そよ風に静かに揺れているばかりだった。

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      ・・・・・・・・・・・・

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それは昔と様相は変わり規模も小さくなっているだろうが、
僕の好きで止まない「田園」交響曲の舞台となった「ウィーンの森と農村」の風景は、
確かに今も残っている。

それが分かったことが嬉しかった今日一日。


Oct 30.2006
wien Austria
Canon EOS5D









テーマ:クラシック
ジャンル:音楽
ディス・イズ・ノット・ア・ピザ!!
2006年10月29日 (日) | 編集 |
ウィーンの街も紅葉は盛りを迎えつつある。
そろそろ目的の落ち葉拾いを始めよう。
出かけようとしたのだが、さて落ち葉を何に入れようか?
いつも日本で使っている柔らかい生地のトートバックも持ってこなかった。
と、目についたのが昨日買ったピザの箱。
これにしよう!!

落ち葉拾い開始です。
公園や街路樹の落ち葉を拾っていると、
通りがかりの人々が、ちらちら見てゆく。
「こんなところにまでピザ持ってきてる。そんなにピザ好きなの?(全てドイツ語)」
って聞かれたら、
「ノー!ディス イズ ア ノット ピッザ!!」
と叫んでやる・・・・・

明日行く予定の王宮の庭で
ピザの箱を抱えながらの落ち葉拾いは、かっこわるすぎるかな・・・

photo:masayoshi ishii


上:ネズミが多いらしいが、リスもよく見かける。

photo:masayoshi ishii


下:ウィーン分離派の拠点、セセッション「黄金のキャベツ」の横のカエデも鮮やかな黄色に。

photo:masayoshi ishii
photo:masayoshi ishii
ウィーン逃亡2日目/ペーター・ブリューゲル
2006年10月28日 (土) | 編集 |
現時点ではもうウィーン滞在も1週間近くになってしまった。

風邪で2日間寝込んでしまったこともあるが、何よりウィーンの一つ一つが見応えのあるものばかりで、それを軽く流すことも出来ない人間なので、予定の半分もこなせていない有様。
仕方なく明日からザルツブルグに一週間滞在の予定の中の3日間をウィーンに当てることにし、計11日ウィーンに滞在することにした。
それでも全然足りないぐらい、この街は魅力に満ちあふれている。

今になって、滞在2日目の日記/ペーター・ブリューゲルの印象。
ウィーンの街は紅葉も五分といったところで、「落ち葉拾い」ももうちょっと紅葉のすすむのを待つことにする。その間美術館、建築巡りをしようと決めた。
ペーター・ブリューゲルの代表作がそろっていることで有名な「美術史博物館」へ行く。
いやあ、ペーター・ブリューゲル、この人はすごい。
感じたのが、遠近感(空間的パースペクティブと色彩的な遠近法)が恐ろしく正確。
パースペクティブでは例えばこの絵は一眼レフカメラでは35mmレンズだな、こっちは28mmだなとか、ぴったりと当てはめられる。
また画面構成が完璧で、非の打ち所がない。
作:ペーターブリューゲル

全てではないが、だいたいの絵は、人や樹木や山の稜線など、主要な構成要素の配置は、左上から右下へ流れている。(それは心理学的に安心感を与える構図だと立証されていると聞いたことがある。)その場合の多くは、右上に色彩的遠近法で空間の抜けをつくり、左下に一塊のものを配置することが多い。
そして巧妙なのが、垂直に立つはずの樹木や建築物を微妙に頭をちょろっと左に傾かせたりして、構図の流れをつくり出していたりする。これらは鑑賞者には分からないぐらいの描き方をされている。(「バベルの塔」では堂々とやっているが)
作ペーターブリューゲル

そしてまた面白いのが、軍隊や民衆を多く描いているが、背中を向けている人が非常に多いということだ。ここに紹介する絵などは、9割が背中を向けている。そう描くことで実際リアリティが増しているのだから面白い。これほど背中を描く画家はぼくは他には知らない。

何より最も驚嘆!したのが、その描き方の細かさだ。世の中に存在する絵の多くは、それもブリューゲルと同時代の画家たちの絵のほとんどは主役と背景がはっきりしている。が、この人にはその主役と背景の境界線がないのかもしれない。どんな遠景でも、小さな鳥でも、樹木の葉、岩、一本の草でも、たいへん緻密で、しかもそれも体温の通った描き方をしている。この人にとっては、画面の隅々までの全てのものが「主役」なのか?と思ってしまう。そういう見方で鑑賞してみても面白いと思います。

ペーターブリューゲルが現在に生きる人だったら、アンセルアダムスのような大判カメラ使いの写真家になっていたかもしれないと思った一日でした。

(以上誰かから言葉を借りた訳でもなく、僕がオリジナルを鑑賞した際の勝手な解釈ですので、当てにしないでください)

絵上:作:ペーターブリューゲル
左上から右下に流れる構図。真ん中の小さい木がさりげなく左に傾き、構図の流れを作る。泊まる鳥と飛ぶ鳥の配置も絶妙。犬も人も背中を向けている。
絵下:作:ペーターブリューゲル
左上から右下へという構図が逆転させることで新鮮な印象になっている。ほとんどの人が背中を向けている。真ん中の樹木が微妙に頭を左に傾けている。

下写真:美術史博物館ホール


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ブルックナー・アーノンクール・ウィーンフィル
2006年10月28日 (土) | 編集 |
たった今、ウィーンの学友協会大ホールで、ブルックナー交響曲第5番(指揮ニコラウス・アーノンクール:ウィーンフィルハーモニー管弦楽団)を聴いてきました。
まだ終わって1時間余り、夢中で拍手した手の痛みがまだ残っています。

素人ながらの勝手気ままな感想です。

この弟5番を生で、それもアーノンクールで聴いて、少しわかったような気がした。というか生の体で感じた。ブルックナーは抽象・混沌・そして無から、音楽という形式を借りて、具体的な形や空間・存在を、まさにリアルに目の前に立ち現わそうとした人なのだということを。(それはもちろん作者にとっては宗教的なものであろう。)

弟4楽章の今にも崩壊しそうな抽象的で「旋律」というにはあまりにも断片的な「音」たちの混沌とした世界から、次第にムラムラと様々な有機的な要素が生成と分裂を繰り返しながら発展し、最後にはフォルテッシッシッ・・・シモにより、それが確実な「形あるもの」として目の前に輝かしく立ち現れる。その音楽は何とポジティブで生命力に満ちあふれていることか。

それを僕は今日、音楽として「聴いた」のではなく、形として「見た」ような気がする。
特にアーノンクールだからか、下手なことをいうけれど、立体的に示してくれていたと思う。
そしてこの5番は、ブルックナーにとってはとても意欲的で、それも実験的な要素を多々含んだ作品なのだということが、アーノンクールの解釈による指揮によってあらためて示されたような気がした。

Oct.27


ウィーンに逃亡中
2006年10月24日 (火) | 編集 |
ウィーンに来てしまった・・・
ウィーンの森の秋の紅葉が見てみたかったから。

持ってきたノートパソコン(MacBook)が、近くのフリースポット無線LANを勝手に拾ってくれて、ホテルの部屋からネットもメールも日本にいるときと全くかわらずに出来ることがわかった。
せっかくなのでフォトログ日記をアップしようとおもいます。

前日旅行の準備で徹夜だったせいで頭は朦朧としていたが、空港から地下鉄で市街地に到着し、地上に出たときの感動ときたら...町並みの美しさに息を呑む。
もう夕闇が迫っていたが、美しいピンク色の空が僕を迎えてくれた。photo:masayoshi ishii

第一日目はただぶらぶら散歩することにした。目的をあえて持たないほうが、見えてくるものもあるかもしれない。
歩いて感じたのは、日本で京都や奈良を旅するのと同じような永い時間の中にいる感覚。ウィーンも京都も同じ古都なのだ。photo:masayoshi ishii

背後に控える荘厳な町並み。でもそれとは裏腹に、あっけないほど違和感なくストリートを歩くことが出来る。都市を支えている様々なシステムは、なんら日本と変らない。高度な情報化の世界の中で、どの国も経済・文化・芸術から人間の内面まで、いろんな物事がリアルタイムに平行して進んでいる。photo:masayoshi ishii

下:通りの配電盤の落書きとシール。日本にもこういうのありますね。まだ夜中の街を歩いたことはありませんが、夜中の都市で繰り広げられる共通した若者文化があるということです。シールや落書きでチームのテリトリーを主張する。
photo:masayoshi ishii


下:配電盤をベンチにしてカフェをした跡photo:masayoshi ishii

世界中の都市のストリートの配電盤を写真に撮って歩くというのも面白いかも・・・

しかしまあ、とにかくウィーンにはカフェが多い。何で??と思っていたが・・・わかってきた。
みんな「まったりする」のが好きなのだ。「余裕・ゆとり」に時間を費やすことに価値を見いだせる人々なのだ。
カフェでは甘そ〜なパフェを頬張っているおじさんやおじいさんを何度も見かけた。甘い物好きなのに「男一人で甘いデザートなんて恥ずかしくて・・・」と遠慮してる方はぜひウィーンで堂々とカフェしましょう。
カフェだけでなく、とにかく至る所で皆一様にまったりしている。
下:美術館前の広場。photo:masayoshi ishii


下:王宮庭園。お父さんが自転車の後ろに子供用の車をくっつけて散歩。こういうところに暮らしの中での気持ちのゆとりを感じる。photo:masayoshi ishii


今日は建築も観てまわったが、シュテファン寺院には法隆寺以来の建築への感動。中ではミサが行われていた。この街の歴史を語るには宗教が欠かせないはずなのに、ほとんどの日本のガイドブックでは触れられていないのには疑問。宗教的に重要な建築も、日本人にとっては単なる「視覚的に観賞するための建物」に過ぎない。photo:masayoshi ishii


しかしこの日一番驚いたのは、「音楽の都」ウィーンのそれもまた中心のシュテファン寺院のすぐ前のストリートで、日本人女性がアップライトピアノでベートーベンの「熱情」ソナタを大熱演パフォーマンスをしていたことだ。少しでも音を響かせようとピアノの背中の板まで外してある。その心意気にただただ脱帽。photo:masayoshi ishii


今日はウィーンの人々の「まったり」に見習って、とりとめなくブラブラした一日。
明日は美術館巡りです。
(相変わらず葉っぱの写真も撮っていますが、現地からのモバイル環境では満足な画質は得られませんので帰ってからアップしようと思っています。)
緑の屋根
2006年10月14日 (土) | 編集 |
高いところから東京都心の建物の密集した街並みを眺めると、よく思うことがある。

この建物たちの屋根がそれぞれ緑でいっぱいだったら、どんな風景だろう、
都市にどんな生態系が生まれるだろうか・・・。

屋根面積の広い集合住宅やオフィスビルがもっともっと屋上緑化されれば、
それが数十メーターごとにでも点在したとしたら、
生命のコリドーとなりえるかもしれない。

屋根を伝っていろんな生き物たちが都市を渡り歩き、それを人間が地上から見上げる・・・
なんて日は来るのだろうか。


写真は建築家、丸山保博さん設計 高円寺の集合住宅の屋上庭園。


photo:masayoshi ishii

テーマ:建物の写真
ジャンル:写真
雨の日に気になること
2006年10月06日 (金) | 編集 |
雨の日に街を歩いていると、どうしても気になることがある。
デパートなどの入り口の、水滴が床に垂れないように傘をいれる使い捨てのビニール袋。
たった数分の用を足すために、一枚のビニール袋がゴミになる。
ぼくはそれを設置している建物に入る時は、これ見よがしに外で傘の水滴をバサバサと落とし、垂れないことを確認して入る。もちろんビニール袋なんか使わない。
ただそうすれば済むことなのに、わざわざゴミを出すことなんかないじゃないか。
使った後の袋が散乱しているのも景観上よくないし。

さて気を取り直して
下の写真は高尾のトリックアート美術館の入り口です。

1枚目:どれが絵でどれが本物でしょう?
2枚目:画像にフィルターをかけてみたら、みんな絵になってしまいました。

結局、写真に撮られた段階で、もうみんな平面になるということですね・・・

japanese people :takao tokyo (c)M.Ishii

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trick_art

コンビニと環境問題と亀田興毅
2006年10月02日 (月) | 編集 |
最近コンビニでは、亀田興毅を採用した「STOP!レジ袋」というポスターで、レジ袋使用削減のキャンペーンをしている。

そのコンビニで買い物をした。
カップラーメンを1個買う。肩にはいつもの買い物用トートバッグを下げていた。
落ち葉をアイロンプリントした手製のトートバッグ。(昨年の作品展のときに販売したら、飛ぶように売れた!)
店長であろう中年のレジの男性は、下を向いたまま「いらっしゃいませ−」と言ってバーコードをピッとやった後、もう機械のように間髪入れずレジ袋の束に手を伸ばして、引きちぎろうとする。
僕は「いりません!」と慌てて一言。
それを聞いて店員は居眠りから覚めたかのように
「あっ!いいんですか!」と一旦動きを止めて顔を上げる。
しかし今度は割り箸を出してカップラーメンの上に置く。
「割り箸もいらないです」と僕。
もちろん僕の下げていたトートバッグが買い物用で、にカップラーメン1個ぐらい余裕で入るのは一目見れば分かるはずだし、だいたい今はレジ袋削減キャンペーン中だ。
それに割り箸がいるかいらないかは、本人じゃないと分からないことなのに。
この店だけでなく、どこへ行ってもこんな感じだ。

これではキャンペーンも、ただ「コンビニでも環境対策してます」という実体のない悪しき「イメージ戦略」だ。それも上からの一方的なジェスチャに過ぎない。
店員の意識が変わらなければ、レジ袋は減らない。
かえって客の方が、レジ袋を何とかならないかと意識している人が多いのではないか。
だいたい店長さえ上のような様なのだから、若いバイト君も同じように機械のようにマニュアル通りに仕事を淡々とするだけ。
レジ袋削減に対して意識を持つ訳が無いよね。