2006年10月28日 (土) | 編集 |
現時点ではもうウィーン滞在も1週間近くになってしまった。
風邪で2日間寝込んでしまったこともあるが、何よりウィーンの一つ一つが見応えのあるものばかりで、それを軽く流すことも出来ない人間なので、予定の半分もこなせていない有様。
仕方なく明日からザルツブルグに一週間滞在の予定の中の3日間をウィーンに当てることにし、計11日ウィーンに滞在することにした。
それでも全然足りないぐらい、この街は魅力に満ちあふれている。
今になって、滞在2日目の日記/ペーター・ブリューゲルの印象。
ウィーンの街は紅葉も五分といったところで、「落ち葉拾い」ももうちょっと紅葉のすすむのを待つことにする。その間美術館、建築巡りをしようと決めた。
ペーター・ブリューゲルの代表作がそろっていることで有名な「美術史博物館」へ行く。
いやあ、ペーター・ブリューゲル、この人はすごい。
感じたのが、遠近感(空間的パースペクティブと色彩的な遠近法)が恐ろしく正確。
パースペクティブでは例えばこの絵は一眼レフカメラでは35mmレンズだな、こっちは28mmだなとか、ぴったりと当てはめられる。
また画面構成が完璧で、非の打ち所がない。

全てではないが、だいたいの絵は、人や樹木や山の稜線など、主要な構成要素の配置は、左上から右下へ流れている。(それは心理学的に安心感を与える構図だと立証されていると聞いたことがある。)その場合の多くは、右上に色彩的遠近法で空間の抜けをつくり、左下に一塊のものを配置することが多い。
そして巧妙なのが、垂直に立つはずの樹木や建築物を微妙に頭をちょろっと左に傾かせたりして、構図の流れをつくり出していたりする。これらは鑑賞者には分からないぐらいの描き方をされている。(「バベルの塔」では堂々とやっているが)

そしてまた面白いのが、軍隊や民衆を多く描いているが、背中を向けている人が非常に多いということだ。ここに紹介する絵などは、9割が背中を向けている。そう描くことで実際リアリティが増しているのだから面白い。これほど背中を描く画家はぼくは他には知らない。
何より最も驚嘆!したのが、その描き方の細かさだ。世の中に存在する絵の多くは、それもブリューゲルと同時代の画家たちの絵のほとんどは主役と背景がはっきりしている。が、この人にはその主役と背景の境界線がないのかもしれない。どんな遠景でも、小さな鳥でも、樹木の葉、岩、一本の草でも、たいへん緻密で、しかもそれも体温の通った描き方をしている。この人にとっては、画面の隅々までの全てのものが「主役」なのか?と思ってしまう。そういう見方で鑑賞してみても面白いと思います。
ペーターブリューゲルが現在に生きる人だったら、アンセルアダムスのような大判カメラ使いの写真家になっていたかもしれないと思った一日でした。
(以上誰かから言葉を借りた訳でもなく、僕がオリジナルを鑑賞した際の勝手な解釈ですので、当てにしないでください)
絵上:作:ペーターブリューゲル
左上から右下に流れる構図。真ん中の小さい木がさりげなく左に傾き、構図の流れを作る。泊まる鳥と飛ぶ鳥の配置も絶妙。犬も人も背中を向けている。
絵下:作:ペーターブリューゲル
左上から右下へという構図が逆転させることで新鮮な印象になっている。ほとんどの人が背中を向けている。真ん中の樹木が微妙に頭を左に傾けている。
下写真:美術史博物館ホール

風邪で2日間寝込んでしまったこともあるが、何よりウィーンの一つ一つが見応えのあるものばかりで、それを軽く流すことも出来ない人間なので、予定の半分もこなせていない有様。
仕方なく明日からザルツブルグに一週間滞在の予定の中の3日間をウィーンに当てることにし、計11日ウィーンに滞在することにした。
それでも全然足りないぐらい、この街は魅力に満ちあふれている。
今になって、滞在2日目の日記/ペーター・ブリューゲルの印象。
ウィーンの街は紅葉も五分といったところで、「落ち葉拾い」ももうちょっと紅葉のすすむのを待つことにする。その間美術館、建築巡りをしようと決めた。
ペーター・ブリューゲルの代表作がそろっていることで有名な「美術史博物館」へ行く。
いやあ、ペーター・ブリューゲル、この人はすごい。
感じたのが、遠近感(空間的パースペクティブと色彩的な遠近法)が恐ろしく正確。
パースペクティブでは例えばこの絵は一眼レフカメラでは35mmレンズだな、こっちは28mmだなとか、ぴったりと当てはめられる。
また画面構成が完璧で、非の打ち所がない。

全てではないが、だいたいの絵は、人や樹木や山の稜線など、主要な構成要素の配置は、左上から右下へ流れている。(それは心理学的に安心感を与える構図だと立証されていると聞いたことがある。)その場合の多くは、右上に色彩的遠近法で空間の抜けをつくり、左下に一塊のものを配置することが多い。
そして巧妙なのが、垂直に立つはずの樹木や建築物を微妙に頭をちょろっと左に傾かせたりして、構図の流れをつくり出していたりする。これらは鑑賞者には分からないぐらいの描き方をされている。(「バベルの塔」では堂々とやっているが)

そしてまた面白いのが、軍隊や民衆を多く描いているが、背中を向けている人が非常に多いということだ。ここに紹介する絵などは、9割が背中を向けている。そう描くことで実際リアリティが増しているのだから面白い。これほど背中を描く画家はぼくは他には知らない。
何より最も驚嘆!したのが、その描き方の細かさだ。世の中に存在する絵の多くは、それもブリューゲルと同時代の画家たちの絵のほとんどは主役と背景がはっきりしている。が、この人にはその主役と背景の境界線がないのかもしれない。どんな遠景でも、小さな鳥でも、樹木の葉、岩、一本の草でも、たいへん緻密で、しかもそれも体温の通った描き方をしている。この人にとっては、画面の隅々までの全てのものが「主役」なのか?と思ってしまう。そういう見方で鑑賞してみても面白いと思います。
ペーターブリューゲルが現在に生きる人だったら、アンセルアダムスのような大判カメラ使いの写真家になっていたかもしれないと思った一日でした。
(以上誰かから言葉を借りた訳でもなく、僕がオリジナルを鑑賞した際の勝手な解釈ですので、当てにしないでください)
絵上:作:ペーターブリューゲル
左上から右下に流れる構図。真ん中の小さい木がさりげなく左に傾き、構図の流れを作る。泊まる鳥と飛ぶ鳥の配置も絶妙。犬も人も背中を向けている。
絵下:作:ペーターブリューゲル
左上から右下へという構図が逆転させることで新鮮な印象になっている。ほとんどの人が背中を向けている。真ん中の樹木が微妙に頭を左に傾けている。
下写真:美術史博物館ホール

2006年10月28日 (土) | 編集 |
たった今、ウィーンの学友協会大ホールで、ブルックナー交響曲第5番(指揮ニコラウス・アーノンクール:ウィーンフィルハーモニー管弦楽団)を聴いてきました。
まだ終わって1時間余り、夢中で拍手した手の痛みがまだ残っています。
素人ながらの勝手気ままな感想です。
この弟5番を生で、それもアーノンクールで聴いて、少しわかったような気がした。というか生の体で感じた。ブルックナーは抽象・混沌・そして無から、音楽という形式を借りて、具体的な形や空間・存在を、まさにリアルに目の前に立ち現わそうとした人なのだということを。(それはもちろん作者にとっては宗教的なものであろう。)
弟4楽章の今にも崩壊しそうな抽象的で「旋律」というにはあまりにも断片的な「音」たちの混沌とした世界から、次第にムラムラと様々な有機的な要素が生成と分裂を繰り返しながら発展し、最後にはフォルテッシッシッ・・・シモにより、それが確実な「形あるもの」として目の前に輝かしく立ち現れる。その音楽は何とポジティブで生命力に満ちあふれていることか。
それを僕は今日、音楽として「聴いた」のではなく、形として「見た」ような気がする。
特にアーノンクールだからか、下手なことをいうけれど、立体的に示してくれていたと思う。
そしてこの5番は、ブルックナーにとってはとても意欲的で、それも実験的な要素を多々含んだ作品なのだということが、アーノンクールの解釈による指揮によってあらためて示されたような気がした。
Oct.27
まだ終わって1時間余り、夢中で拍手した手の痛みがまだ残っています。
素人ながらの勝手気ままな感想です。
この弟5番を生で、それもアーノンクールで聴いて、少しわかったような気がした。というか生の体で感じた。ブルックナーは抽象・混沌・そして無から、音楽という形式を借りて、具体的な形や空間・存在を、まさにリアルに目の前に立ち現わそうとした人なのだということを。(それはもちろん作者にとっては宗教的なものであろう。)
弟4楽章の今にも崩壊しそうな抽象的で「旋律」というにはあまりにも断片的な「音」たちの混沌とした世界から、次第にムラムラと様々な有機的な要素が生成と分裂を繰り返しながら発展し、最後にはフォルテッシッシッ・・・シモにより、それが確実な「形あるもの」として目の前に輝かしく立ち現れる。その音楽は何とポジティブで生命力に満ちあふれていることか。
それを僕は今日、音楽として「聴いた」のではなく、形として「見た」ような気がする。
特にアーノンクールだからか、下手なことをいうけれど、立体的に示してくれていたと思う。
そしてこの5番は、ブルックナーにとってはとても意欲的で、それも実験的な要素を多々含んだ作品なのだということが、アーノンクールの解釈による指揮によってあらためて示されたような気がした。
Oct.27
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